遊女とは?
遊女(ゆうじょ、あそびめ)とは、遊郭や宿場で男性に性的サービスをする女性のことで、娼婦、売春婦の古い呼称。「客を遊ばせる女」と言う意味が広く知られています。
その仕事内容、一般的には、宴会席で男性客に踊りを始めとする遊芸を主に接待し、時代、及び立地により、元来は芸能に従事する女性一般を指したものであり、とりたてて売春専業者を意味するものではなかった。とはいえ、客の求めに応じて性交を伴う性的サービスをする事もあったのだが…。江戸時代の遊女の一部は女衒(ぜげん…主に若い女性を買い付け、遊郭などで性風俗関係の仕事を強制的にさせる人身売買の仲介業である)から売られた女性であったが、高級遊女の大部分は、廓(くるわ…都の外まわりをかこんだ土壁)の中や、遊芸者層で生まれた女子の中で、幼少時から利発かつ明眸皓歯(めいぼうこうし…美女の形容)な者が、禿(かむろ…遊女の使う幼女)として見習いから育てられた。だいたい10年ほど奉公し、年季を明ければ(実年齢25~26前後)自由になるが、それ以前に身請されて結婚、あるいは囲われる者も多く、また一部はやり手(遊女の指導・手配などをする女性)や縫い子、飯炊きなどとなり、一生を廓の中で過ごす者も存在した。また、雇い主からの折檻、報酬の搾取など劣悪な環境で働かされた者が多かったという。
江戸時代の公認遊郭といえば、島原、新町、吉原が三大遊郭(大阪・新町のかわりに長崎・丸山、伊勢・古市を入れる説もある)であったが、ほかにも全国20数カ所に公許の遊廓が存在し、私娼を禁じた。遊郭以外で売春するものを隠売女と称し、厳しく取り締まったという。
明治時代では、全国の制度に則った遊郭は約350、それ以外の遊郭に類するものが約150もあった。明治37年末の調査では、全国に官許の娼妓4万2000人余、芸妓2万6000人余を数えた。
大正時代の所定の貸座敷地域は、都内は6か所(吉原、洲崎、新宿、品川、千住、板橋)に限定され、大正10年の都内の娼妓登録者は5600人であった。その8割以上が吉原、洲崎、新宿に集まり、半年で約30万人の集客があったという。
薄雲太夫
江戸中期に江戸・吉原(よしわら)の三浦屋四郎左衛門方にいた遊女。薄雲は『源氏物語』第19帖(じょう)からとったもので、太夫は揚女郎(あげじょろう)の最高の職制をいう。勝山、高雄、吉野らとともに吉原で著名な遊女だが、薄雲を名のった遊女は3人あり、それぞれの詳細はさだかではない。一般に知られる薄雲は信州(長野県)埴科(はにしな)郡鼠宿(ねずみじゅく)の出身で、舞伎(ぶぎ)に優れ、猫を愛したといわれる。1700年(元禄13)7月に350両で身請けされた。
元禄の頃、江戸の吉原に薄雲(どの薄雲かは定かではないが)という有名な遊女がいました。薄雲太夫は飼っていた猫と一緒に道中するほどの猫好きで、この猫のために友禅で布団を作ったり、首に紫色のちりめんで金の鈴をつけてあげたりしてかわいがっていました。猫は薄雲の行く先々についていって、いつでもじっと薄雲をみまもっていました。しかし回りの者にはこの様子が猫に妖怪が乗り移っているようにしかみえず、気味悪がられていましたが、あるときとうとうこの猫は首をはねられてしまいました(酷すぎる…)。ところが、猫の首は力尽きる前に薄雲を狙っていた毒蛇をかみ殺して、主人を助けました。薄雲はたいそう悲しみましたが、これを不憫に思った日本橋の大店の主人が、長崎から取り寄せた伽羅の銘木でこの猫の木像を作って薄雲に贈りました。この猫の模造品を浅草の「年の市」で売りだしたところ飛ぶように売れて、これが招き猫の始まりとも言われるようになったといいます。
江戸中期の遊女、薄雲の話より
高尾太夫
高尾太夫(たかおだゆう)は、吉原の太夫の筆頭ともいえる源氏名。高尾太夫は、吉原で最も有名な遊女で、その名にふさわしい女性が現れると代々襲名された名前で、吉野太夫・夕霧太夫と共に三名妓(寛永三名妓)と呼ばれる。三浦屋に伝わる大名跡であった。何代目まで続いたかは、諸説があって判然としておらず、6代説・7代説・9代説・11代説の4説がある。
まぁこんだけ有名なお方なだけに、逸話は今の落語にもなぞらえております。逸話ということで言えば、2代目高尾太夫に仙台藩主伊達綱宗がかなりご執心でした。しつこくお金をばら撒いてあの手この手で高尾太夫を口説いて(相当な惚れ込み様だ…)いたのですが、全く一度も相手をしてもらえませんでした。当時の遊女は自分でお客を選べる権利があるため、金をチラつかせる社長に嫌気が差していたのかもしれませんwお金で愛は買えませんよねぇ、お金は生活には欠かせませんがwそれでも高尾太夫の体重と同じお金を積んだようで(約7~8億円と言われてます)嫌々ながら高尾太夫はお誘いを受けることになったのです。そんだけ積まれる前に私ならOKしちゃいそうですが(笑)。
ところが、身請けをされても綱宗を拒み続けた高尾は、ある日舟遊びに誘われて、可愛さ余って憎さ百倍の綱宗に柱に逆さ吊りにされて切り殺されてしまったそうです。理由はどうやら、島田重三郎という間夫がいたそうで、その人に操を立てていたみたいなのです。わからなくはないですが、大金積まれてOKしたなら、せめて愛想の1つや2つはしてあげないと…と思いますがねぇ。それでも心だけは許すことはなかったそうです。でもって、藩主が吉原女郎相手に殺人事件を起こして大騒ぎとなり、綱宗は21歳の若さで隠居することになっちゃったんですよね。まぁ伊達のお家騒動の発端とも言われていますが、真偽は定かではないそうです。
一方、落語の「紺屋高尾」ではハッピーエンドに仕上がってます(笑)紺屋という店の染物屋の職人久蔵が高尾太夫に一目ぼれをして、寝込んでしまいました。真面目な久蔵に医者は「給金が1年で3両、3年経てば9両、あと1両何とかして高尾に逢いに行けば良いじゃないか」とその場を取り繕う慰めを言います。そして3年経って本当に久蔵が9両貯めたのを知って、医者と親方は1両をあげて、身なりも褌から全て貸してあげて吉原に送り出します。
漸く高尾太夫と逢って夢見心地の久蔵に、高尾は「今度はいつ来てくんなます?」と言います。もう次は来れないと思った久蔵は自分の身分と経緯を泣きながら話すと高尾太夫はいたく感動して、年季の明けた翌年、久蔵の元にお嫁に来ます。親方に暖簾わけをしてもらい、「高尾太夫が女房の店」として繁盛しました。めでたしめでたしw