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女の一日

風俗三十二相

 今のように電気があったわけではありませんから、寝る時間も早かったのだと思います。概ね朝早く行動するので、泊りの遊客は夜明け前に店を出ます。遊女は客を見送った後、二度寝です。午前10時頃起床。し、入浴、朝食、掃除をします。

 当時の吉原の妓楼は昼見世、夜見世と1日2回の営業なので、正午頃に始まる昼の部にそなえ、化粧などの身支度を整えます。昼の営業までの自由時間があり(売り込みの商人の相手、手紙を書いたりする)、遊女の見習いの禿(かむろ)はこの時間帯に手習いをしたといいます。昼見世は午後4時頃終了。遊女たちは遅い昼食を摂り、夜の営業まで自由時間。日没と同時に夜見世の営業開始。遊女は張見世に並び、客の指名を待ち、客が指名すると二階に上がります。時には複数の客の指名を受けることもあります。夕食は暇を見て一階であわただしく済ませる。妓楼の営業は午前2時までだが、寝床の遊女には決まった終業時間はなかったといいます。

 花魁など上級遊女は自室が与えられ、食事は1日3食で、3度とも2~3品の内容で、禿が部屋まで運んでくる。新造と呼ばれる下級遊女は共同生活で、妓楼の食堂で食べるも、内容は虫くさいふけ米、おかずは小魚の干物、イモの煮たものなど内容はかなり悪い。

 遊女の格によって暮らしぶりには相当な差があったと思われます。※階級はこちらを参照。吉原には「年季は10年、27歳~28歳まで」という原則がありましたが、実際は不特定多数の客と行為をすることで性病にかかってしまったり、過労や集団生活で伝染病にもかかりやすく、また無理勤めさせられて病死することや、年季を偽られ、働かされることもあったようです。どこでもそうだったわけではありませんが…。

 年季が明けた時、情のある楼主はまじめに勤め上げたときは、多少の前借が残っていても棒引きにしました。これを「証文を巻く」といいますが、親元に帰すなり、馴染みの客と所帯をもたすなりしたようです。ただこのような例は稀であり、多くの遊女は浮気、病気などで前借金がかさんでしまいました。また妓楼に置いても仕方がないとみたら、品川など四宿、岡場所などに転売させられてしまうこともあり、これを「住替え」といいました。身請料は莫大な金額であり、年季の途中で身請けされる遊女はごく一握りでした。

戸の食事情

江戸の暮らしぶり

 江戸時代の食事は、今でもそうですが家計により様々な差がありました。ただ、今とは違いその食べ物の種類は限られたものではあったのですが…。ある程度の収入のあった家庭では、それなりに3食とれ、おかずもあったと思いますが、収入の少ない家庭では、おかずもなく、1日2食もあったと思います。まぁ昔は肉料理なんてものがなかったので、魚や野菜中心のおかずになってしまいますよね。

 例えば、ある下級藩士の子であった俳人の内藤鳴雪(ないとうせいめつ)は、魚が膳に上るのは、「1日と15日、28日の3回と決まっていた」と記しています。

 農民はというと、今も昔も米を作っています。ところが、江戸時代の農民の多くは白米を食べることができませんでした。現代のように農業が高度化されていませんので、大量に収穫はできません。それゆえ収穫した米の大部分を年貢(税金)として供出しなければならず、自家用に食べられるお米があまり残らなかったのです。白いご飯の食事というものは、お祭りなどのイベント時にしかとることはできませんでした。そのため、農民にとっては、毎日白米を食べている江戸の町人たちはとても豊かに感じられてたようです。

 女衒(ぜげん)という女の子を買い取る商人のことなのですが、全国の貧しい農家を訪ねては美人の娘を買い取るのが仕事です。10才にもならない子どもを連れて行くのですが、その際に少女をなだめるために使われた決まり文句は、「白いまんまが毎日お腹いっぱい食べられるようになるよ」というものだったそうです。農家の子どもたちにとって、白米を食べられる生活は「夢」のようなものだったのでしょう。

民にも親しまれた寿司

寿司屋模型

 皆さんは、寿司ネタで何が一番好きでしょうか?現在、寿司ネタといえばトロなど脂が乗ってるものが人気ですが、江戸っ子たちの人気ネタはなんだったのかといいますと、「海老」「コハダ」「玉子」「たい」「あなご」「白魚」「あじ」「いか」「たこ」「はまぐり」といったところが王道だったようです。

 わたしたちが大好きなトロなんかは「脂っぽすぎる」というのでまったく人気がなかったというから驚きですね。江戸時代は冷蔵技術も未発達だったので、寿司ネタのほとんどは酢で〆る、醤油で漬ける、火を通すなど下処理したものばかりだったといいます。今も大人気の「漬けまぐろ」も江戸時代後期に誕生したネタで、屋台の寿司屋が湯引きしたまぐろを醤油とみりんに漬け込んで出したところ大人気になったとか。当時のまぐろは庶民の魚だったので、漬けまぐろも高級店では出されなかったそうです。なんだか不思議な感じですよね。また、生ネタが主流の現在では寿司に醤油は欠かせませんが、江戸時代、寿司ネタに味つけがされていたうえ、シャリ自体の味が重視され今より味がついていたのでなにもつけずに食したそうです。

 現在の握り寿司は女性でもひと口で食べられるくらいのサイズですが、江戸時代の握り寿司はもっとビッグサイズ。今の2倍以上のちょっとしたおにぎりサイズだったとか!値段はどれくらいだったかといいますと、ネタによりますが、屋台の寿司でひとつ4~10文(約60~150円)、ちょっと高級な店舗の寿司は20~30文(約300~450円)あたりが相場だったと考えられています。んー今そのボリュームならたくさん食べれそうw。ちなみに、現在のお寿司は「2貫で1セット」として出てくるのが基本ですが、これは寿司のサイズが大きかった時代に食べやすいように2つに切ってお客さんに提供したのがルーツ、といわれています。諸説あります。お酢のブランドで有名なミツカンの工場では江戸時代の屋台の寿司屋を再現したものも見学できるようです。

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