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治までの規模

今様見立士農工商商人・歌川国貞

 明治以降は、遊郭の在り方は人権主義に移っていったため、江戸で栄えた吉原遊郭は、衰退の時代を描いていくのであるが…。

 江戸時代前から売春防止法が施行されるまで、日本では、江戸のみならず大坂や京都、駿府、長崎などにおいても大規模な遊廓が存在し、地方都市にも小さな遊廓は数多く存在したのだという。働く男の心身のよりどころは昔からあったのですね。そういえば、江戸の夫婦事情ってどうだったのでしょうか。江戸時代の女性というと「三従(さんじゅう)」つまり、幼い時は親に従い、結婚したら夫に従い、老いては子に従わねばならぬ……いわゆる“三界に家なし”“貞女二夫にまみえず”みたいな不自由で弱い立場だったとイメージしていませんか?正直、そんなイメージは近年昭和初期まであった気がしますがw

 まぁ夫につくすという男尊女卑のイメージのある江戸時代では、旦那が「離婚だ!」と言い出したら、妻は問答無用で従うものだと思ってました。時代劇なんかもよくそんなシーンありますよね。実際、当時もそういったことが多かったと思います。

 夫が勝手に外で女を作るということは、実は結構あった話のようです。夫が妻に愛想をつかす(理由は様々あると思いますが…)こともよくあり、遊郭へ遊びに行ったまま帰らない、駆け落ちしてしまうetc…。まぁそんな中でも吉原遊廓というところは、全国でも最大級の規模を誇っていたと言われています。つまりは、男が吉原へ赴く理由はそれぞれですが、その多くはここで厄介になってたと思われます。とはいえ、まじめに働き、妻とも末永く愛し合い、過ごす者も多かったに違いないとは思いますがw

 さて、当時の吉原遊郭は敷地面積2万坪あまり。最盛期で数千人の遊女がいたとされています。男も女もまぁとんでもないくらいの人間が出入りしていたのではないでしょうか。江戸市中の中でも最大級の繁華街と言うことができ、吉原と芝居町の猿若町と日本橋が、江戸で一日に千両落ちる場所といわれていたほどです(とんでもない稼ぎだ…)。

やかな吉原

凌雲閣の模型

 明治以降の吉原は、その姿を幾度となく変えていったといわれています。正面口の大きな門も、江戸幕末までは木製でしたが、明治に入ってからは鉄製の門へと変わってます。また、建物のほとんどは、贅沢な作りとなっていたようです。その中の「金瓶楼」という遊郭は格式も高く、とても大きな建物だったようです。今でいえば、10階建てのマンションの全部屋が遊郭みたいな感じでしょうか。

 更には、吉原のメイン通りなどには、鉄格子で覆われた出窓的なものがあり、通りを歩く男性客をそこから客引きしていたとも言われています。男性客はその中から、好みの女性を選んでいたのだと思われます。実際にそういった格子のある見世に並んでいる遊女を格子女郎と呼んでいたようです。

 遊郭の区画内には、角海老楼の時計塔(吉原メインストリートの左奥に位置)という吉原髄一の大楼がありました。格式が相当高く、庶民はとても近寄ることができなかったと記録に残っています。角海老楼の時計塔は樋口一葉の名作「たけくらべ」(明治27年)に 「朝夕の秋風身にしみ渡りて・・・角海老が時計の響きもそぞろ哀れの音を伝へるやうに成れば・・・」 と叙述が有るように当時八官町の小林時計店、外神田の大時計(京屋)と並んで角海老楼の時計塔は東京の名所としても有名で、絵葉書にもなりました。

史の幕が閉じられる

火消し師

 明治のはじめ、吉原の安尾張楼に奉公してた宮沢平吉が角尾張楼の楼主となり、その後海老屋を買い取り京町1丁目2番地に、明治17年角海老楼と名付け約400坪の敷地へ木造3階建ての時計台付の大楼を建てました。時計は舶来製の機械で、太めの文字板枠に穴空き針、ローマ数字の文字板は径七尺、文字板の上には金属シェードが付いた電球照明が文字板を照らしています。四面文字板壁は唐草のようなレリーフ、鈴塔及び文字板下に装飾手摺を廻らし、文字板下の手摺には「角海老」銘の看板が4面に取り付け、その四隅八箇所には灯火を取り付けていました。時打ち装置を持ちその鐘の音色は高くかつ麗しかったとの事です。

 角海老楼の時計台は新吉原の名物的存在で明治初期より末期まで30年近く時を告げてきましたが、明治44年4月9日の有名な新吉原大火で焼失してしまいました。下は「東京北角の大火新吉原角海老楼へ延焼之実写」と題された博画館発行の吉原大火を描いた報道石版画で新吉原のシンボル角海老楼の時計台が正に焼け落ちる所が映し出されています。東映映画「吉原炎上」1987(五社英雄監督)はこの大火を題材としています。

 大火は、今は時めく花見どきと詠われた花の吉原江戸町、江戸300年の歴史を空しく焦土に化してしまいました。新吉原江戸町2丁目の美華登楼より出火だったようです。黒煙を渦まく火は見る見る広がり(木造家屋は凄まじいことかと…)、江戸町全部を焼失し大門出口より各飲食店を焼き尽し、今戸町や田中町、浅草町、山谷町、元吉町、吉野町、橋場町、南千住停車場までを延焼しました。飛火は下谷龍泉寺町三ノ輪方面を焼き、最も酷かったのは新吉原の角海老楼であったと言われています。吉原の各楼を焼失の際、遊廓三千の娼妓の泣きさけび、助けを乞う様は地獄絵図のようだったと記録されてます。この大火にて、近衛及第一師団の歩兵隊警察官と協力して非常線を張り消防署には常備の蒸気ポンプだけでなく、横浜市からも応援に来るほどのものでした。ようやく鎮火したのは午後7時40分。焼失戸数6600余戸、死傷者数100名を出してしまい、江戸名物の新吉原の不夜城も全部焦土と化してしまいました。

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