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化の発祥地だった吉原

江都夏十景・浅草

 多くの下級遊女たちの悲惨な境遇にもかかわらず、吉原遊廓は新しい文化の発信地でもあった。さまざまな女性の髷(まげ)や、衣装などが、吉原遊廓から新しいファッションとして始まったことからも分かる。憧れのそれとは少し意味合いは違うようだが、確かに遊女の身なり格好は華やかで、慎ましく、見るものを虜にしていたことは明らかだった。そして、それらは芝居と呼ばれた歌舞伎と相互に作用して、音曲や舞踊、その他の雑多な芸能とともに江戸市中で評判となったのだ。これは、男性と女性の間に起こる悲喜交々が、人々の耳目を引いたためであろう。それは男女の恋物語や、生涯の悲しいお話として、芝居となり、浄瑠璃として語られ、唄に歌われたのである。吉原遊郭を題材にした浮世絵は多く、そのどれをとっても現実の一生とは違い、華やかで活気にあふれたものだ。

 吉原遊郭は江戸幕府公認の遊郭として生まれ、その歴史は幕府よりもずっと長く続いていた(歴史についてはこちらで紹介)。江戸幕府が発展していくのと並行するように、その存在も発展していくのだが、政府からはあまりよくは思われておらず、大火のこともあり、どんどんと隅っこへ追いやられていくのである。一般的に知られる吉原遊郭は浅草寺の裏。時代劇なんかで登場してくる吉原は、この新吉原がほとんどだ。吉原遊郭は、現代における歓楽街とは大きく異なる。もちろん歓楽街ではあったが、同時に江戸最大の観光地でもあったのだ。出入り口は仲之町と呼ばれるメインストリートへ続いている大門のみで、四方を堀と塀で覆われていた。多い時で1万人が暮らしていたと言われている。それだけ大きな観光地であったため、江戸の人はもちろん、地方からの観光客も吉原を一目見ようと足を運んでいたのでしょう。まさしく吉原は大きなテーマパークだったのかもしれません。

 江戸の流通は本当に目まぐるしく、多くの人で賑わっていたという。毎年の正月やお盆、月見やひな祭り、春になれば仲之町にはたくさんの桜の木が植えられており、お花見が催されるなど、たくさんのイベントが企画されてました。豪華絢爛な花魁道中は、今でいうあの某Dランドのパレードそのもののような感じだったのでしょう。遊郭だけが吉原の魅力だけでなく、おいしい地元グルメなどや、綺麗な着物や生地など、ファッションとしての発祥地であったことは言うまでもありません。

魁はファッションリーダー

山海愛度図合

 活気という点においては、江戸の町は人の流れの絶えない中心地として今日の日本の東京を作り出していったのでしょう。現代の女性も憧れるモデルさん。流行の最先端ともとれるそのファッションセンスは吉原において花魁がファッションリーダーとして当てはまるのではないでしょうか。江戸の町娘たちはこぞって着こなしや髪型、装飾品の数々を少しでも真似しようとしていたようです。浮世絵のモデルや、戯作の舞台になったり、芝居などで取り上げられる花魁を身請けするお話しなどは、上流階級の人々のステータスになっていたのではないでしょうか。今でいう売れっ子の芸能人のような存在だった花魁は、注目され、憧れの的だったといえます。

 もちろんそんな遊郭で働く遊女たち全てが華やかな生活(遊女の1日はこちらを参照)をしていたわけではないのは言うまでもないことなのですが、調べれば調べるほどに、吉原遊郭がどれだけ色濃く光と影を持っていたのかがわかります。

 昔から人の流通が盛んだった吉原周辺には、もちろん飲食店も多く存在してました。江戸のグルメで思いつくものって何でしょう?寿司、天ぷら、うなぎ、いろいろと出てきますが、江戸でもこれらは庶民に親しまれていました。千住や日本橋に魚河岸があったことと関係するかもしれませんが、こういった海の幸も多く出回っていたと思います。吉原という名前は、昔日本堤という河原で葦(よし)の原っぱだったところから来ているといわれています。吉原用語で『おちゃっぴき』という言葉があります。昔は客が付かない遊女がお客に出すお茶を臼で引いて粉茶を作っていたというところから、客が全く付かないことを『今日はお茶を引いてた』というようになったと言われています。

魁ファッションが注目

花魁ファッション1 花魁ファッション2 花魁ファッション3

 盛んだった江戸から明治初期までとは少し離れ、吉原遊郭がなくなってからの昭和36年に、松葉屋という料亭ができました。松葉屋が地域観光の目玉として、吉原芸者衆によるお座付き、花魁道中・花魁ショーという形で江戸文化として保存していったのであります。そもそもの吉原芸者ですが、誕生は宝暦年間(1760年頃)、吉原に扇屋歌扇(おうぎやかせん)という踊子が芸者の発祥と言われております。この頃から娼婦として体を張ることでなく、遊女として磨いてきた芸を披露することも一つの手段として確立していったと思われます。

 さて、その松葉屋は、地域観光の目玉として、吉原芸者衆によるお座付き、花魁道中・花魁ショーという形で江戸文化を保存していったのであります。…が、1998年に廃業。現役の吉原芸者はおらず、受け継いでいる方はいらっしゃるのですが、もうすでに現役ではないということです。ただこの方は吉原の伝統芸である、お座付き芸、おんな木遣り(手古舞)、二挺鼓などを伝えていっているそうです。遊女にしても女芸者さんにしても日本の文化が消えゆくのは何とも悲しいことです。浅草観音うらの一葉桜まつりのなかで、江戸吉原花魁道中というものが毎年4月に開催されていますので、こちらへも足を運んでいただきたいと思います。

 話を少し戻しまして、花魁道中などで江戸の娘たちから注目を浴びていた花魁ですが、そのファッションリーダー的な存在であることを伝えてきました。その花魁ファッションが現代でも若い女性から注目されています。特に成人式や華やかなイベントのときには花魁をイメージした振袖のような着物、髪型、そしてとても差しきれないほどの派手なかんざしなど、そんな大きなイベントで目立ちたいと考える女性が増えています。

 実際の花魁も多くのかんざしを差して派手に着飾っていましたが、現代の女性は自作したり、あるいは専門のショップで購入するなどしてかんざしを用意しているようです。花魁のかんざしには玉簪、芳丁、小半月、びら簪など様々な種類があります。それらをうまく組み合わせることで華やかなおいらんヘアに仕立てているのです。

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