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府からの便宜

営業風景

 徳川江戸幕府は、高度成長期真っ只中にあり、江戸市中は拡大し続け、大名の江戸屋敷も吉原に隣接するようになっていった。そんな中、明暦2年(1656年)10月に幕府は吉原の移転を命じる。候補地は浅草寺裏の日本堤か、本所であった。吉原側はこのままの営業を嘆願したのだが聞き入れられず、結局、浅草寺裏の日本堤への移転に同意する格好となった。この際に北町奉行・石谷貞清は以下の便宜を図っている。

  ①吉原の営業できる土地を5割り増し(3丁四方)

  ②夜の営業を許可

  ③風呂屋者(私娼)を抱える風呂屋(風俗営業をする銭湯で、遊郭の競合)を200軒取り潰し

  ④周辺の火事・祭への対応を免除

  ⑤15,000両の賦与

 15,000両がなかなかピンときませんが、1両が現在の価格でおよそ13万円くらい(当時の物価価値や、生活スタイルがまるで違うため、そもそも比べるのは難しいことなのですが…)。なので、15,000両=19億5,000万円となりますね。あくまで参考例としてですが、日本銀行金融研究所貨幣博物館の資料によると、当時と今の米の値段で比較すると、1両は約4万円、大工の手間賃では1両30万~40万、お蕎麦の代金は1両12万~13万と試算しています。今の物価の換算ですと、どれも該当はしませんが、おおよそ13万円と考えてもいいかと思いますw

きく変わる区画

吉原区画画像

 奉行所の便宜内容から風呂屋の盛況も移転の理由だったことが窺える。幕府は同年9月に風呂屋者を置くことを禁止している(それ以前との記録もあり)。もっとも、周辺火事への対応免除は、逆に吉原で火事が発生した場合に周りから応援が得られず、吉原が全焼する場合が多かったという皮肉な結果をもたらした。折りしも翌明暦3年(1657年)正月には明暦の大火が起こり、江戸の都市構造は大きく変化する時期でもあった。大火のために移転は予定よりも少し遅れたが、同年6月には大火で焼け出されて仮小屋で営業していた遊女屋はすべて移転した。移転前の場所を元吉原、移転後の場所を新吉原と呼ぶ。新吉原には、京町1,2丁目、江戸町1,2丁目、仲之町、揚屋町、角町があった(京町以外は全てちょうと読む)。

 寛文8年(1668年)、江戸市中の私娼窟取り締まりにより娼家主51人、遊女512人が検挙されて新吉原に移された。これらの遊女に伏見の墨染遊郭や堺の乳守遊郭の出身が多かったため、移転先として郭内に新しく設けられた区画は「伏見町新道」「堺町新道」と呼ばれた。またこの時に入った遊女達の格を「散茶(さんちゃ)」「埋茶(うめちゃ、梅茶とも)」と定め、遊郭での格付けに大きな影響を与えた。

 徳川吉宗は享保6年11月全国の人口調査を命じたが、新吉原の人数の記録がある。惣(ママ)人数高8,171人、15歳以上男2,375人 同以下463人、15歳以上女4,003人、以下女330人、右のうち家主182人、店借り620人、遊女2,105人、禿941人、召使2,163人。この中で合計があわないのもあるが、文献のままである。

 新吉原での火災は延宝4年から慶応2年の191年間に22回あった。安政2年の地震による火事では、郭内の死者は千二十余人、遊女のみ、530余人を数える。失火があったら火消も繰り出すが、大門内に入らず鎮火を待った。焼け残りがあるとこれを焼き払ったのは、仮小屋での営業が許されないからである。仮宅による営業はうまみもあり、火事を密かに願ったと者もいたという。

 新吉原を開設したのは尾張国知多郡の須佐村の人だったという論文が『知多半島郷土史往来4号』(はんだ郷土史研究会刊)で発表されている。著者は作家の西まさる。西論文によると、吉原遊郭の揚屋は総数約20軒で、そのうち13軒以上が知多郡須佐村の出身であることが、地元寺院の過去帳や寄進物記録で明白になったという。その背後に千賀志摩守がいたはずと発表している。

び名の由来

屋形船でくつろぐ

 江戸幕府ができてから、吉原遊郭はその歴史をスタートしているが、遊郭なる遊女遊びはもっと古くからあったもので、あまり表だっての文献は多くはない。吉原遊郭の資料が割と存在するのは、ひとえに江戸幕府が公認とした遊郭だからである。

 元吉原も新吉原も、同じ様相ではあるが、それぞれ日本橋近く(現在の日本橋人形町)にあった時代を元吉原。明暦の大火後、浅草寺裏の日本堤に移転したものを新吉原と呼んだ。まぁ元々は駿府城下(現在の静岡県葵区)にあった二丁町遊郭から派生したのがはじまりとも言われている。

 江戸末期の新吉原は、吉原大門正面口からの道は日本堤から下る「衣紋坂」とそれに続く「五十間」で、遊廓への唯一の公式通路と言われていた。「大門」をくぐった先が吉原遊廓で、高い塀と「おはぐろどぶ」に囲まれた、隔絶された楽園であった。廓内は、通りごとにいくつかのエリアに分かれていた。道路のつくりはほぼこのとおりに現存していて、地図で容易に確認することができる(ただし、実際にはもっと上下に広く左右に狭い)。また、現在の紹介はこちらを参考にしていただければと思います。

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