遊郭の立ち位置は?
江戸時代を通じて吉原遊廓は男性の最大の社交場所であったが、吉原遊廓にとっても競争相手は常に存在していた。元吉原時代は、風呂屋者、風呂屋女と呼ばれる風呂屋で隠れて商売をする遊女屋があった。江戸は富士山の火山灰が堆積した土地で埃っぽく、さらに初期の江戸は都市開発の真っ最中だったために泥まみれ、埃まみれになる仕事が多く、風呂屋が繁盛したが、その中には女性を置いて客の相手をさせる場合があった。「丹前風呂」などがその例である。また、その後も江戸は膨張を続け、深川などに岡場所が出来てきたり、各街道の最初の宿場町が手軽に行ける遊興場所を兼ねるようになってきたりすると、吉原遊廓は激しい競争に晒されるようになった。それでも、江戸時代を通じて吉原遊廓は江戸では最大の繁華街としての地位を維持し続けた。
明治期以降になると吉原遊廓は縮小されていくが、それでも、昭和32年(1957年)4月1日の売春防止法施行まで、元吉原の時代から数えて340年に渡って、吉原遊廓は営業を続けることになる。
江戸の中での遊郭の位置づけは、極めて高かったのではないかと思われます。吉原に奉公に行くと歌や踊りだけでなく、読み書きから俳句、茶道、華道、香道、書道、古典といった高い教養を仕込まれます。吉原の客は大名、旗本、豪商といった人たちですから、教養を備えなければなりませんでした。そんな人たちを相手にしなければならないため、ある意味花形職とも言われてても不思議ではなかったのかもしれません。これだけの教養を身につけていれば妻に迎えるに十分というわけで、身請けしてもらい「いいところの家」に嫁いでいくわけです。玉の輿なのかどうかはわかりませんけどね。なんせ遊女(特に花魁クラス)と言えば、かかる費用もばかにできなかったでしょうから…。
遊女は10年の年季制度で、生活手段として市民権を得ており、特に吉原遊郭においての遊女は格式高いものでした。当時の外国人から見れば、いわゆる人身売買の行為や、女性蔑視、人権侵害的な思想は西洋のものであって、身分としては大変低く、卑しい職業と言われています。日本と外国の価値観の違いは結構な開きがあったのですね。
それぞれの格付け(江戸初期)
遊女のランクは時代によって少しずつ変わっています。1701年刊行の「傾城色三味線」には新吉原初期の遊女の人数がランク毎に掲載されています(格は上から上位)。
①太夫 5名
②太夫格子 99名 (以上高級遊女)
③散茶 493名
④埋茶 280名 (以上中級遊女)
⑤五寸局 426名
⑥B三寸局 44名 (以上下級遊女)
⑦並局 400余名(最下級遊女)
⑧切見世女郎 計1750余名。
ちなみに「傾城」とは遊女のことで、「一度はまったらお城が傾くほどお金をつぎ込んでしまう」と言う意味です。
見世のランクはそこにいる遊女の値段や評判で決まっていて、見世によって抱える遊女のランクが違いました。
①太夫は容姿・教養共に最上位の遊女で、店に出ることはせず、自分の部屋で客から呼ばれるのを待っています。お金も掛かるし、お金を使う武士の数も減り、太夫クラスの遊女は徐々に減っていきます。②格子(太夫格子)は「格子」の前に座り、客の品定めを受ける遊女です。このように格子がある店を「張見世」と言います。③散茶は散茶遊女の多くは幕府の取り締まり後、吉原に入れられた湯女でした。湯女は湯屋(銭湯)で働いていた女性で、掃除・雑用の他にお客も取らされていました。吉原の遊女は嫌いなお客は断りますが、湯女出身の遊女は変なプライドもなくお客を振りません。散茶とは茶葉を挽いて粉にしてお湯を入れたお茶のことで、普通に入れたお茶のように急須を振らなくても飲めたので「散茶」と呼ばれました。④局はお客と過ごすための自分の部屋を持っていた遊女。⑤切見世は自分の部屋を持たず、大部屋を衝立で区切っている「廻し部屋」でお客と過ごす遊女で、吉原では最下級のランク。これらの見世は遊女を時間売りするので、切見世女郎と呼ばれました。遊女は大体が年増(30代以上)で、格子のない店先でお客を誘ったりしていました。
それぞれの格付け(江戸後期)
宝暦期以降の吉原の遊女の階級はどんなものだったのか。今までの吉原は、それこそ大身の武士や豪商、大名などがこっそりとお忍びで…みたいに、一般庶民には縁のなかった場所であった。ところが、この宝暦年間(1751年~1764年)に吉原は営業方針を大衆路線に切り替え、庶民を中心としたものになっていきました。ちょうどこの時期に太夫という呼称はなくなり(こちらでも解説)、最高位の遊女を昼三(ちゅうさん)と呼ぶようになりました。江戸後期の時代劇や時代小説などで、よく江戸の町に悪い豪商人などが太夫に言い寄るシーンとかあったりしますが、その頃には吉原に太夫は存在しなかったことになります。
では、宝暦期以降の吉原の階級について見ていきましょう(格は上から上位)。
①花魁(上級遊女)
・昼三・座敷持・部屋持
これらの階級にはそれぞれの自室が与えられていた。昼三のなかでも最高位は「呼出し昼三」と呼ばれ、客は地方の豪商や豪農、諸藩の留守居役(るすいやく)などの富裕層。昼三は新造つきで一晩、最低でも17万円~。座敷持は、昼三と同様に日常生活を送る個室と、客を迎える座敷を持つ。昼三にくらべ、部屋は質素。客は旗本の次男坊や商家の番頭など。一晩、7万円前後~。部屋持は、日常生活を送る個室に客を迎えた。客は諸藩の藩士や裕福な幕臣など。一晩、3万3000円~。※価格はすべて交遊費などを含めない揚代(あげだい、遊女代)のみ。1両=13万円で計算。
②新造(下級遊女)
自室はなく20畳程度の部屋で共同生活だった。客がつくと、共用の「廻し部屋」を使った。また、30歳過ぎの年季明けの遊女は、客はとらず、上級遊女の雑用などを引き受ける番頭新造(ばんとうしんぞう)を務めた。
③禿(かむろ)
10歳前後の女の子で、花魁の雑用をしながら廓(くるわ)のしきたりや、遊女としてのしつけを学び、読み書きも教えられた。15歳位で新造となり客をとる。