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級遊女と下級遊女

飲みの席でのシーン

 江戸時代の多くの時代を通じて、ランクの高い見世(遊女屋、妓家)の遊女と遊ぶためには、待合茶屋(吉原では「引手茶屋」と呼ばれる)に入り、そこに遊女を呼んでもらい宴席を設け、その後、茶屋男の案内で見世へ登楼する必要があった。茶屋には席料、料理屋には料理代、見世には揚げ代(遊女が相手をする代金)が入る仕組みであった。

 では、江戸庶民の生活はどんなものだったのか。当時の物価価値などで現代とは相違点はあるものの、その暮らしをざっと見ていきましょう。

 まずは収入の面。遊郭に売られた女性の場合、年季奉公になるので、収入はゼロ。必要なものは遊郭側からの経費となっていたようです。そもそも自由な環境にあらず、年季明けであれば自由にはなれたでしょうが、グレーな部分にはなっていると思います。吉原にくるほとんどの遊女は、親や兄弟の借金のカタに売り飛ばされて、地方からやってくるケースが多いでしょう。もしそこから太夫クラスまで昇りつめるには、遊郭側から借金してまで知識と教養と芸事や色気を磨くしかありません。ただその借金の返済が完了するまでには、年季内では極めて難しかったと思います。ましてや遊郭側から素質がない者にお金を貸すこともなかったでしょうから、全ての遊女が太夫を目指せることはなかったでしょう。

 では太夫のような上級遊女はどうだったのでしょうか。接待する相手は金持ちなだけでなく、たいそうな数奇者(すきもの)。「色道」を極めるべく、遊女との恋愛遊戯のためなら全て失っても良いという、ある意味壊れた方ばかりだったのでしょう。そんな彼らと対等に向かい、接待するには、彼女自身が年間500両以上は稼いで、それを商売道具に必要経費として費やさねばならなかったともいわれるんですね(※江戸初期 1両=13万円ほど)。これは小規模な藩だと御家老様のサラリーと同額。年収300両という中級武士でも、吉原で上級遊女と遊べるのは月に3度が限界。それ以上になると破産してしまったとか。ひえー。

 遊女は30歳前後で引退ですから、そんな若い女性が、各藩の御家老様かそれ以上稼いでいても借金は自力では返せず、現在なら数千万円以上の収入のある客でも毎週は遊びには来られない吉原のシステムだったと思います。「恐ろしい」のひと言です!そのうちの3割程度は遊郭側が占めるでしょうが、それでもかなりの高給取りに違いはなかったと思います。

 上級遊女と下級遊女では、その稼ぎや賃金に大きな差があったのは言うまでもありません。

戸庶民の生活

寿司屋模型

 江戸時代の生活者の大半は庶民(町人)であり、決して豊かに暮らしていたわけではありません。日常は、質素な衣類を身にまとい、貧しい食生活をしていたはずです。様々な江戸時代の史料は残されていますが、ある程度上流階級の人々の生活実態であり、本当の意味での庶民の生活に関しては憶測や想像でしか伝わっていないのが現状です。衣食住でもって順に見ていきましょう。

 ①衣類

  今のように工場があるわけではありません。基本的には手作りのものになります。吉原の太夫が派手やかな着物を身に着けていますが、庶民の場合それとは大きく異なり、古着屋で購入したり、安価な生地を買って縫い合わせるなどして作ったり補修したりと、毎日同じものを着ていたようです。どうしても使い物にならなくなった場合は、雑巾にしてみたり、赤ん坊のおしめにしたりと使いまわしていたので、現物が残っていないのはこのせいでしょう。実態としてはほとんどのものがリサイクルして使っていたと思います。

 ②食事(こちらでも紹介)

  まず最初に伝えておきたいのが、時代劇などで出てくるシーンにご飯とみそ汁と焼き魚とお新香が付きものだと思います。しかしこれはあくまで富裕層であったと認識しておかねばならないでしょう。食卓におかずが登場することはとても珍しいこと。魚なんて月に1、2回くらい食べられれば良かったのではないでしょうか。特に「お米」はそうそう手に入れることはできなかったと思います。

  朝食は味噌を薄くした汁にいもや麦。昼は豆腐、おにぎりとかまずあり得ないと思います。夜はなし、あるいは油揚げとかゆくらい。漬物や糠漬けなども漬けるものはそれほど多くはなかったと思います。

 ③住まい

  江戸庶民の住居は時代劇などにも出てくる長屋が一般的です。部屋と部屋の仕切り(壁)は薄く、声や音は筒抜けであったようです。今のワンルーム的なこととはかけ離れ、トイレや井戸、洗い場は全て共同。隙間風も入ってくるような作りでしたし、夏場は蚊に悩まされていたことでしょう。娯楽などには縁のない家庭がほとんどで、一般庶民にとっては贅沢な行事だったといえます。当時はこれが当たり前のことであったので、実際に生活している庶民にとっては働けて食べれて寝ることができれば、それほど不自由という感覚はなかったと思います。


 遊郭に売られてきた遊女に給料がない話をしましたが、必要最低限の食事と寝るところ、衣類は支給されていたのでしょう。時代劇なんかでは「もっと客を取ってこい」なんて台詞を言って蹴り飛ばすシーンなんてのもあったりしますが、下級遊女にとってはこれが日常だったんでしょうね。

郭遊びの料金

さらし問屋

 他のページでも再三書いているのですが、遊郭遊びは高給取りの遊びであったと言われてます。もちろん江戸時代は大変長い歴史があるので、そのときどきで料金にも変化が出ているわけなのですが…。

 江戸幕府ができて間もない頃は、吉原遊郭は庶民には縁のないものでした。古くは元吉原の時代からなのですが、その後大火などもあり、新吉原になった後の宝暦期以降は、庶民でも手が出るものとなっていった。とはいえ、娯楽は贅沢行事であったため、通いつめることはなかったでしょう。当時の収入ですが、時代によっても価値によっても異なってきますが、一般大工の仕事で1日約4000円くらいと言われています。ちなみに現代ではかけ蕎麦1杯200円くらいですが、江戸の蕎麦はおよそ160円くらい。

 上級遊女ともなれば200万円くらいはかかると言われてますので、大工計算でもざっと1年半ほどの収入分になります。江戸後期になってから遊女との交遊が庶民にも…とありましたが、太夫クラスでなくとも、大工収入で見たら、1ヵ月から2ヵ月くらいの収入分はかかっていたと想定できます。現代の娯楽施設には様々なものがありますが、江戸時代には遊園地だの映画館だのテーマパークなんてものはありませんでしたから、歌舞伎を見たり大道芸を見たりするのと同じ立ち位置に吉原遊郭があったのかもしれません。

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