華やかさの裏には…
一見、華やかそうに見える当時のファッションリーダー(こちらでも詳しく紹介)とも言える遊女がまずどのように誕生しているのかというと、
①農村・漁村などの貧しい家庭の親が、生活難のため娘を妓楼に売る
②貧しい下級武士の家の親が生活難のため娘を妓楼に売る
③不況や事業の失敗などで没落した商家の親が借金のカタに娘を妓楼に売る
④悪い男にダマされて若い娘が妓楼に売られる
簡単に言ってしまえば、人身売買になりますね。表向きは幕府も人身売買を禁じていたため、「遊女は妓楼で働く奉公人」ということになっていましたが、それはあくまで建前で、実際には女衒(ぜげん)と呼ばれる“人買い”に親や親類、時には夫が娘や妻を売り渡していました。江戸市中の場合は女衒を使わず直接、妓楼に親らが娘を売ることもありました。身売りされる年齢と金額はどれくらいだったかといいますと、幼女の場合は7~8歳(時には5~6歳)、もう少し大きくても10代前後の少女。金額に関しては、ピンキリだったようですが、農村部での場合、3~5両(現在のおよそ30~50万円)で幼女を女衒が買ったという記録があります。下級武士の場合だと18両(およそ180万円)で娘が買われたという記録も。いずれにせよ、現代人からみると理解しがたい話ですが、当時の事情は知るよしもなく、安易には批判できません。
遊郭へ向かう彼女たちは「吉原へ行けば毎日白いおまんまが食べられるし、きれいな着物が着られるよ」と吹き込まれたり、娘を手放す親は「これも親孝行だと思って堪忍しておくれ……」と言ったりしながら、娘たちは泣く泣く吉原へと売られていきました。
吉原へ売られてくる女性のなかには、すでに遊女として働いていた玄人(プロ)の女性たちもおり(吉原は幕府公認の遊郭)、吉原以外にも「岡場所」と呼ばれた売春エリアがあって、幕府非公認つまり非合法の遊女(私娼)が色を売っていたといいます。
岡場所は非公認なわけですから、幕府は何度も私娼の取締りを行っており、その際に摘発された私娼たちがセリにかけられ吉原の妓楼へ売り渡されたのです。彼女たちは「奴女郎(やっこじょろう)」と呼ばれ吉原の遊女のなかでも軽蔑されたそうですが、なかには花魁のようなトップクラスの遊女に昇りつめる女性もいました。それが勝山(かつやま)という遊女でした。
勝山は江戸時代初期の吉原で絶大な人気を誇った遊女で、彼女の考案した髪型は「勝山髷(かつやままげ)」と呼ばれ大流行したほどです。この勝山も、吉原の遊女になる前は「湯女(ゆな)」という色も売る湯屋の従業員で、私娼摘発により吉原へ連れてこられたのですが、美貌と才覚をもって破格の出世を成し遂げたのです。
お客を取るに至るまで
幕府の取締りなどで吉原へ連れてこられた私娼は非公認とはいえすでに遊女ですから、吉原に来たらすぐにお客をとるようになるのですが、女衒が仕入れてきた幼女たちはすぐに客をとらされることはなく、まず禿(かむろ…遊女の使う幼女)としてスタートします。禿はだいたい15歳くらいまでの少女で、先輩である花魁の身の回りのお世話や雑用をしながら、吉原や妓楼のしきたりを学び、“未来の遊女”としてしつけられていきます。また、遊女の必須教養として読み書きなども教わったりします。
一応吉原のルール(あくまで原則ですが…)に年季は最長10年、27~28歳で年季明けと言われており、10年間妓楼で働き、27歳になったら晴れて自由の身になれる、というわけです。まぁ、これはあくまで“原則”であり、スムーズに年季明けを迎えるのはなかなか困難だったようです。
さらに、お客をとらない禿時代は年季のうちに入らないので、たとえば7歳で妓楼に来た女の子が17歳でお客をとり始めたとすると、実際には20年という長い時を吉原という狭い世界で過ごさなければなりませんでした。禿も16歳くらいになると次のステップに移ります。見習い遊女の「新造(しんぞう)」です。新造になったらすぐにお客をとるわけではなく、花魁について身の回りの世話をしながらお客のあしらい方など“遊女のテクニック”を学びました。お客をとる前の新造は特に「振袖新造」といいます。
新造はお客をとる前、ある儀式を行わねばなりませんでした。それは、初体験、つまり処女の喪失です。これは「水揚げ(みずあげ)」と呼ばれるもので、禿から妓楼にいる少女や、未婚の女性など処女に対して行われました。相手をするのは、妓楼が依頼したその道に長けた40歳ぐらいの金持ちの男性だったそう。乱暴だったり下手だったりして、性行為に対する恐怖心や嫌悪感を抱かせないよう人選には気を遣ったようです。こうして一人前の遊女とされた女性たちは、その後、毎日、お客の相手をすることになっていくわけです。
自由を手に入れる方法
遊女の毎日の生活は、かなり過酷な状況だったと言えます。遊女の一日はこちらを参照。とにかく四六時中お客の相手をしなければならず、毎日寝不足であったため、肉体的にも精神的にも大変なことだったと思います。追い打ちをかけるかのごとくに、脱走させないため、吉原からの外出は禁止されておりました(吉原内は可能)。まぁ吉原の周囲には堀もあり、外から入るにも中から出るにも関所のような門を通らなければならなかったのですが…。そういうことで、彼女たちはまさに籠の中の鳥状態だったわけです。
さて、何とも皮肉な話ですが、自身が売られた時の代金(親が受け取った代金)は自分の借金となっていた(つまりは自分がタダで引き取られたことになる)だけでなく、自分の着物や髪飾り、化粧代なども自腹、さらに花魁の場合は、付き人である禿や振袖新造の着物代なども自腹で支払わなければならなかったので、借金はまったく減りませんでした。働いても働いても楽にならず……です。とはいえ、正月には餅つきをするなど季節のイベントもありましたし、貧農の娘のままなら一生着ることのできない豪華な着物や髪飾りをつけることもできたうえ、茶道や和歌など諸芸を学ぶこともできました。しかし、年季とされた10年という年月はとてつもなく長い。このつらい10年が過ぎるのを待つ前に吉原から自由になる方法がひとつだけありました。それは……金持ちのお客さんにお金を払ってもらって妓楼から出してもらうこと(しかないよねぇ)。これを「身請(みうけ)」といいますが、これには莫大なお金が必要でした。
身請代=その遊女の身代金+遊女のこれまでの借金+これから稼ぐ予定だったお金+妓楼のスタッフや遊女の妹分らへのご祝儀+盛大な送別会の宴会料+雑費etc…
必要とされた身請金は下級クラスの遊女でも40~50両(現在の金額でおよそ400~500万円)、中流クラスの遊女なら少なくとも100両(およそ1000万円)、トップクラスの花魁ともなれば1000両(およそ1億円)以上もの身請金を払ったという例もあるほどでした。余談ですが、江戸時代の文学界を代表する作家のなかで2度も遊女を身請し、妻に迎えた人物がいました。名を山東京伝。京伝は数々のヒット作を生み出した当時の大人気作家というだけでなく、浮世絵も手がけるし、煙草入れや手ぬぐいのデザインも手がけるし、といったマルチクリエーターでした。身請された遊女は妾(めかけ)となることが多かったのですが、京伝は2度とも「妻」として迎えています(1度目の妻は死別)。そこに京伝の遊女への本気といいますか真摯といいますか、そういった気持ちが伺える気がします。
悲しい結末
年季明けを待たずに自由を手に入れる方法がもう一つあります。それは死ぬことです。前述にもあるような身請けされる遊女はほんの一握りでしかありませんから。死因の原因は概ね性病、梅毒(常在菌による感染症)による病死。他には中絶による体の不調からきたり、別の角度から言えば、惚れた男性と心中するケースも少なくはなかったという。妓楼にとって遊女の心中や逃亡は大罪であり、ほかの遊女への示しもつかなくなるため、心中や逃亡を図った遊女には厳しい罰が科せられたといいます。成功すれば良しですが、失敗すると悲惨ですね…。
では年季が明けて晴れて自由の身となった遊女はどうなるのでしょうか。もちろんお役御免で開放された者もいたのでしょうが、大体は着物をはじめ自腹で買わなければならないものの支払いが結構あり、年季が明けても借金はたくさんある、という場合も少なくありませんでした。ではその場合はどうなるのか? 「ここまで頑張ってくれたから退職金で借金は埋め合わせるよ」なんて都合のいい話はありません。もちろん退職金なんてものは存在しませんでしたから、年季が明けても借金があった場合には借金の取り立てが待っているのです(コワイコワイ)。
じゃあどうやって返すのか、以下にまとめてみました。
①そのまま妓楼に残って、「番頭新造」として花魁の雑用をする(原則お客はとらない)。もしくは「遣手(やりて)」として遊女の監視・管理係となる
②吉原のすぐ外にある「河岸見世(かしみせ)」と呼ばれる安い妓楼へ移籍する
③岡場所や宿場の女郎屋などで色を売る
④「夜鷹」と呼ばれる筵(むしろ…藁(わら)やイグサなどの草で編んだ簡素な敷物)1枚を抱え辻に立つ最下級の街娼となる
夜鷹は私娼のなかでも最下層といわれる女性たちで、40歳すぎの大年増も多く、シワを厚く塗った白粉(おしろい)で隠したりしたそうです。また、病気の者も多かったといいます。値段も非常に安く一説に24文(およそ480円)だったとか……。遊女が無事に借金を返済できた場合でも幸せになれるとは限りませんでした。
借金を返済終えて、実家に帰ってみるや、歓迎されるどころか「もう居場所はない」と迷惑顔をされてしまうでしょう。そもそも三味線や琴は上手でもロクに家事もできず、中絶の繰り返しなどにより子どももできにくい元遊女と結婚してくれる相手がいない……というのが現実だったようです。いずれにせよ吉原の遊女たちのほとんどはこのような一生を送らなければならなかったのです。