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戸幕府のはじまり

白紺糸威丸胴具足

 そもそもの始まりは、天正18年に徳川家康が江戸幕府を開いたところからはじまる。

 家康の狙いとしては、関東に追いやられた家康が、秀吉を見返してやろうという反骨精神で堺(当時の都としては大阪にあたるのだが)並みの大きな町づくりをしてやるという想いから今日の東京、江戸というものがあるのだと考えられる。

江戸町人の男女比

 そんな江戸の町づくりは、急ピッチで行われていたのだが、そうとうな人手を要するため、各地より様々な職人が集まったとされる。戦乱の時代が終わり天下泰平の世になったことから、多くの浪人が仕事を求めて江戸へ集まったとされる。そのため、当時の文献はないのだが、男女比は圧倒的に男性が多かったのだと言える(江戸中期頃には、人口の3分の2が男性という記録がある)。そのような時代背景のなか、江戸市中で遊女屋が点在して営業をはじめるようになった。こういったことでのお金儲けは、各地にあったのだが、際立って江戸の開発が進むことで、より多くの男手が必要とされる場所ではその営業店数も日に日に増えていったことだろう。

女屋の条件定義

江戸東京博物館内・風俗図

 一方、江戸幕府は江戸城の大普請を進める一方で、武家屋敷の整備など周辺の都市機能を全国を支配する都市として高める必要があった。そのために、庶民は移転などを強制されることが多くあり、なかでも遊女屋などはたびたび移転を求められた。そのあまりの移転の多さに困った遊女屋は、遊廓の設置を陳情し始めた。当初、幕府は相手にもしなかったが、数度の陳情の後、慶長17年(1612年)、元誓願寺前で遊女屋を営む庄司甚右衛門(元は駿府の娼家の主人)を代表として、陳情した際に、

  ①客を一晩のみ泊めて、連泊を許さない。

  ②偽られて売られてきた娘は、調査して親元に返す。

  ③犯罪者などは届け出る。

 という3つの条件で陳情した結果、受理された。現代の風俗の起源ともされるべき事柄。どれも現代においてその条件というものがつぶさに見て取れる内容ですよね。しかし、豊臣側に組していた罪人(徳川方から見たらですが…)の処理に追われていた幕府は、遊郭どころではなく、陳情から5年後の元和3年(1617年)になってようやく、甚右衛門を惣名主として江戸初の遊郭、「葭原」(よしわら、よしはら、あしはら、とも読めるのだがw)の設置を許可した。その際、幕府は甚右衛門の陳情の際に申し出た条件に加え、江戸市中には一切遊女屋を置かないこと、また遊女の市中への派遣もしないこと、遊女屋の建物や遊女の着るものは華美でないものとすることを申し渡した。

法営業は今も昔も?!

江戸の風景(日本橋)

 しかし、寛永の頃までは、遊女が評定所に出向いてお茶を出す係を務めていたという(何とも矛盾した話であるのだがw)。結局、遊廓を公許にすることでそこから冥加金(上納金)を受け取れ、市中の遊女屋をまとめて管理する治安上の利点、風紀の取り締まりなどを求める幕府と、市場の独占を求める一部の遊女屋の利害が一致した形で、吉原遊廓は始まった。結局のところ、お互いがWin-Winになったことで、めでたしめでたしだったのだが…。

 その後の吉原遊廓の歴史は、江戸市中で幕府の許可なく営業する違法な遊女屋(それらが集まったところを岡場所と呼んだ)との競争を繰り返した歴史でもあったのだ。これは現代においての違法風俗店と警察との取り締まりにもあることなのだがw

 このとき幕府が甚右衛門らに提供した土地は、現在の日本橋人形町にあたる(当時の)海岸に近い、葦屋町とよばれる2丁(約220メートル)四方の区画で、葦の茂る、当時の江戸全体からすれば小さく目立つような土地ではなかった。そのような界隈を「吉原」と呼ばれるようになったという。寛永17年(1640年)、幕府は遊郭に対して夜間の営業を禁止した。このことで市中に風呂屋者(湯女)が多く現れるようになり、その勢いは吉原内にも風呂屋が進出するほどだったという。

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